下辺さんの場合 ④
下辺さんの場合 ④
「先週の復習です。釈尊が悟りを目指し、瞑想していると、わかりやすい言葉で言うと、悪魔ですね。それが、邪魔をしたわけですね。」
話ながら、教師が黒板にカッカッカッとリズム良く板書をしていく。
「その悪魔、マーラ・パーピヤスが、自らの美しい娘を差し向けて、釈尊を煩悩で、誘惑し……」
教師は話し続け、ときたまに長い髪を搔きながら、板書を考えている。
その中で、一人の生徒だけが、頬杖をついて窓の外を見つめていた。
彼女の耳には、何もかもが聞こえていないようだった。ここに在りながら、どこか遠いところに在った。
「仏教の六つの道の中で、畜生道、餓鬼道、地獄道というのが、いわゆる欲界に属し……」
ーーー
あれから一週間が経った。芹岐サンと初めてまともに話したあの大雨の日。
こんな牢屋のような学校にいて、初めて友達ができた気がした。
生徒会長、あのとき下の名前も教えてもらった。
下の名前で呼んでほしいとかゆってたけど、流石にそれは照れ臭かったのでナシにした。
それから少しだけメールでやり取りをしているけど、生徒会の仕事が忙しいのか、あんまり返事は帰ってこない。
ああ、なんか最近いつもアイツのことを考えちゃってる。
そうやって、考えてると……
ブーブブ……
from:ねるちゃん subject:数学の授業暇す...
メールが、来た!
いや、授業中なんだけど、今……。
当然、センコーはこちらに向かってくる。
ーーー
チャイムが鳴り響いてしばらくすると、教室からは少し小柄な影が退室する。
だが、その生徒の存在感は、体躯に似合わないほど大きいようだった。
「芹岐さん!」
「おはよーございますっ!」
「芹岐さーん!」
「すごい、芹岐さんだ!」
「芹岐せんぱい~!」
生徒会長、芹岐 練。転校一か月にして、生徒会長の座に登った少女。
芹岐は声一つ一つに、慈母のような表情で応えてゆく。
時折、生徒会のメンバーに呼び止められるも、少し考えてテキパキと指示を出していく。
一人歩く彼女に様々な生徒が殺到していく姿は、ただの學園の廊下の中にあって、まるで聖人の行脚のようだった。
ーーー
「ねえ、あなた聞いてるんですか?學園内では、携・帯・の・電・池は切る!そんなことがなんでわかんないんでしょう?」
センコーがギャンギャン吠える。授業が終わってから、もう10分が経とうとしている。こいつ暇なの?
「しかも相手、誰です?他のクラスの子?そいつと授業中に携帯ブーブー鳴らして遊んでたんですか?」
もうずっとこの調子だ。
「そもそもあなた、いっつもどっかほっつき歩いて、何してるの?」
「はあ」
カンカンに起こり散らかしている。あたし何でこんな恨み買ってるわけ?マジで意味わかんな。
網斗理子……先生。
仏教の授業を担当していて、生徒会……たぶん芹岐サンがいるとこの担当をしているらしい。
完全なマジメババア。あたしが合うわけがない人間。
ていうか、そもそも、アイツ、生徒会長サマが何やってるわけ?授業中にメール送って、マジでさああああ……。
チクってやろうか?クソ……。
ーーー
尋常ではない怒声にただ事でないことを察した芹岐は、その場で止まった。
どうも、生徒と先生の諍いのようで、生徒側は先週屋上で語り合った、あの下辺さんのようだった。
そして教師側を見るやいなや、芹岐は柔らかい笑みでその場に近づいた。
「網斗先生。」
芹岐の凜とした声がその場に通る。
その瞬間、争いがシンと止まった。まるで天使が通ったようだった。
「ネルさ……んっんっ……芹岐さん、なんですか?私は今この子に……」
しかし芹岐は遮った。
「網斗先生、この前の授業の悪人正機の考え方は、とても勉強になりました。」遮られた網斗先生は口をもたつかせ、芹岐は言葉を続ける。「私、この子に用事があるんです。」
すると網斗先生はバツが悪そうに、「次やったら、おしおきですから。」と吐き捨ててその場を離れていった。
それに同調するように、芹岐は網斗先生のほうを向いて「ええ、おしおきですね。」と口走り……
そのまま芹岐は下辺のほうに振り向いた。
その表情にはどこか笑みのようなものが見えた。
ーーー
芹岐サンはあたしのほうをニヤニヤしながら振り返る。
何、やっぱりセイトカイチョーだから網斗と一緒にあたしにおしおきしようってわけ?
「おしおきって、どういう……」あたしが芹岐に言いかけた瞬間、芹岐は「あっ」というような表情で自分の口を塞いだ!
その「あっ!」はなに?その「あっ!」は!
「フフフ、秘密ですよっ♡」と芹岐はおどけながら、あたしを見つめる。
表情を見ると、どうも本気で取るだけムダな感じっぽかった。
「……ありがと。」とりあえず礼を言った。
名にはともあれヤバい先生から遠ざけてくれた。
いつものあたしだったら、ここでどちらかが負けるまでにらみ合うしかできなかった。
助けてくれる人がいるって心強いと思った……。
「いいんですよ、ところで下辺さん……。」そう言いながら、彼女は顔を目の前まで近づけてきた。
もう本当にこいつ、やめてほしいと思った、初めて見たときからそうだった。こいつの目は吸い込むように深くて……。
「ちょ、な、何……。」
よくわかんない甘い匂いがして、ドキドキする。
彼女はあたしの耳で囁いた。
「おしおき。来週の……月曜日……。」
!?
「ぜーったい逃げちゃだめだよ。月曜日だから。」
は?おしおき?あたし?どういうこと?
それが何をさしてるかわからないけど、その音にクラクラした。
小さいころ、親に言われたとき以来にそんな言葉をきいた。
意味わかんない、混乱する。ほんとに、こういうとこキモい。
深呼吸したあとに気づくと芹岐サンはいなくなっていた。
しばらくするとメールを受信した。
from:ねるちゃん subject:月曜日はおしおき
だけど、それに何回返信をしても、芹岐サンから返信は帰ってこなかった。